


寒椿(かんつばき)
平成24年1月12日
新年明けましておめでとうございます。本年もご愛顧のほど宜しくお願い申し上げます。
年末年始は昨年同様、京都二泊と奈良二泊の合計四泊五日の滞在となりました。
昨年と異なり東日本大震災の影響か、正月を祝うという雅な感じではなくうらぶれた古都の印象であり、内面的にはひたすら寂しさが募るという、もの悲しいジャーニーでありました。ひとつは外人観光客が随分少ないことと、欧州債務問題をきっかけとする世界経済の減速と民主党の幼稚な政治運営がもたらしてきた将来への不安感が日本を覆いつくしているためだとも言えます。大晦日、今は誰も住んでいない亀岡市の親が生活していた家に立ち寄り、新しい歳を迎える飾りの準備、鏡餅・注連縄・線香・仏花・酒を供えてきました。この場所で二人が亡くなるまで生活をしていて、大晦日のこの日雨戸を閉め切った真っ暗な寒い部屋部屋でひっそりとしている情景は悲しいばかりです。かっては孫達が辺りを転げまわっていた情景とは対照的です。せめて正月飾りだけでもと立ち寄り、あらかたの飾り付けを終わり線香をあげてから、30分かけて亀岡駅まで歩いて帰りました。生きている人たちがお亡くなりになった縁のある人々を感謝の気持ちで弔ってあげなければいけません。最低限、やらなくてはならないことと思います。これは今生きている我々は過去何百世代前からの先祖を代表して今このときを生きているからであります。頑張らなくちゃあ。理屈ではなく事実そうなのだからちゃんとしなくては。
今年初めて元旦に奈良の桜井市にある日本最古の三輪山をご神体とする大神神社に初詣に出かけました。さすがにこの日は立錐の余地も無いほど実に大勢の人々がお参りに来ておられました。不景気で将来の不安があるからか、例年そうなのか分りませぬが、日本人の遺伝子と言うものを感じざるを得ませんでした。ヤンキーぽいカップルも爺さんもオバタリアンも紳士淑女もみんな神妙な顔をして二礼二拍一礼をしています。なかなかええ風景です。このような時は
まだまだ日本は大丈夫かなあと心底思います。大丈夫だ。
平成24年2月27日
ちょうど昨年の今頃の震災前だったと思います。郡山市の久留米公民館で日大の経済学部教授の方の講演会があって”安積開拓(あさかかいたく)”の話を聞く機会がありました。東日本大震災があった前月なので2月のこの頃でした。猪苗代湖から水を引く”安積疎水(あさかそすい)”とか開成山(かいせいざん)公園にまつわる”安積開拓”の話は言葉としては”ああそうか”というレベルで知ってはいました。かって京都に暮らしていた頃、琵琶湖から京都市内への水路、蹴上(けあげ)の疎水(琵琶湖疏水とも呼ばれる)はなじんだ名前だったので”ああ東北にも同じような用水路があるんだなあ”という程度の認識です。蹴上の疎水は安積疎水の完成から3年後の着工なので安積の方が古く、また疎水の完成が安積開拓をさらに前進したと言えます。講演を聴いて、一番驚いたのが元士族、元藩士で家族を含む総勢約2,000名(約5百戸)が全国各地から郡山を中心とする安積近辺に明治10年を前後して入植してきたという事実です。先の郡山市久留米公民館の久留米は久留米藩の久留米なのです。伊予の松山藩(愛媛)・鳥取藩・岡山藩・土佐藩(高知)特に多かったのが福岡の久留米藩で150戸です。近辺からは山形の米澤藩・福島の二本松藩・棚倉藩と会津藩です。一体どのようにして山陰のあの砂丘で有名な鳥取からみちのく東北の地まで、よくも家族を引き連れて来ることが出来たものだと驚きます。家財道具とかの荷物はどうしたのだろうか?宅配便も無いので持てる範囲の品物だけだったのだろうか?先祖代々のお墓や親戚を残して見ず知らずの異国の寒冷地で全く経験の無い農業をやると決心させたものは何だったのだろうか?
鳥取から神戸まで陸路で行き(中国山脈を徒歩で女・子供を連れて越えるだけでもとんでもない大冒険だ)神戸から横浜まで船で海路を行き、そして横浜から新橋までは開通したての鉄道を利用したとの話です。東京から霞ヶ浦は船で渡って水戸まで行き、水戸から郡山まで陸路を”行脚”(今では、水戸から郡山まで水郡線が通っているが電車でも3時間半近くかかります)とはどんな旅だったのだろうか。途中のトイレ・宿泊・食事とか思うと一人旅でも大変だが女・子供や老人が一緒の総出の引越しだったことを考えると、まさに決死の旅だったことが分ります。
久留米藩の元藩士でリーダーだった森尾茂助達は明治11年11月11日に久留米を船で発ち横浜までは海路だったと思われますが、後は鳥取藩の人達と同じ足跡を辿ったものと考えます。郡山に着いた頃は厳しい寒風の舞う初冬だっただろうと推察します。暖かい九州や南国土佐から来た人々にとっては心身ともに辛い経験であったでしょう。私も最初郡山に来て事務所を借りる契約を済ませたもののホテルの予約もしていなかったため、布団も何も無い事務所の二階の片隅で寝た記憶があります。堤二丁目はちょうど会津からの強風の通り道で夜中中、電線がびゅうびゅう唸る音で熟睡できず、シャーリーマクレーンの”Out
on a Rimb”(その当時、流行っていたニューエイジ精神世界のバイブル的書物・今の私は精神世界などともっともらしくのたまう人達を信じていなませんが)を読んでいたのを覚えています。こんな所で商売できるのか、飯が食えるのかと不安感を助長させる風の音でした。私の場合も、サラリーマンではなく、自分で客を探して自分で稼がなくてはならない立場であり、なにくそとやる気満々な戦闘意欲とは裏腹に大きな不安感が超えがたい壁として立ちはだかっていました。私の場合は家族は東京において単身で乗り込んできたので、落ち込んだ時でもそのまま悔し涙で悔しがり、どんなに歩き回っても受注できない時は、営業車を公園の片隅に止めて背もたれを倒し気持ちが立ち直るまで、車窓の外で舞い散る小雪を眺めていれば良かった。家族に気遣うことなく、勝手に沈んでいれば良かったのです。一家をあげての開拓となれば家長たる男は泣き言を言ってはおれず、しんどさ辛さは自分の胸にしまい他の家族を叱咤激励しなくてはなりません。開拓開始から2年3年経っても痩せた開墾地からの収穫はいっこうに増えず、地場のもともとの農家の十分の一ばかりだったとの記録も残されています。水持ちの悪い痩せこけた原野と始めての農作業、まさに刀を鍬に変えての挑戦でしたが無残な結果だったようです。借金ばかりがかさみ、7-8割の移住者が最終的には血と汗で開墾した農地を手放す羽目となりました。一家離散、やむなく日本を捨てての渡米、北海道への再移住・小作人への転落等々惨憺たるとても悲しい物語がさらに続きます。いつの時代でもそうですが、政府勧奨の政策はいつでも下々(しもじも)の大きな犠牲を伴って失敗します。それは現場が分らぬ官僚役人の思惑で立案された策であることと、乗っかかる人も政府の助成金をあてにしている甘さがあるためと思います。お上の音頭で助成金を餌にベンチャー企業を興しましょうなどという施策もあるようですが、成功したためしがありません。ベンチャー企業などというのは助成金で立ち上がるような類のものではないのです。まさにリスクをいっぱい背負い、のた打ちまわり追いに追い込まれて始めて、稀に、極めて少ない確率で、世に無い優れた製品なりビジネスモデルが生まれてくるという”厳しい世界”だと思います。役所で上役のご機嫌を取りながら仕事?を大過なくこなしているオヤジ役人の音頭とりで新しい時代を先取りする起業など億万の助成があろうとありえません。
私の父方の祖先は黒田藩士で、明治維新後、とりわけ廃藩置県で士族の食い扶持が完全に断たれてからは酒をあおる日々でまっしぐらに転落の人生へと変節したと聞いています。ご先祖さんは福岡にとどまり入植こそ無かったものの、今では久留米藩士の方々を通じて郡山との縁を深く感じております。私ももはやよそ者ではない、当事者達の末裔なのだと。
この講演を聞いてから2週間後に、かの東日本大地震が起こりました。極めて主観的かつ直感的に思ったのは、遥かかなたからこの東北の地にやって来て筆舌に尽くしがたい辛酸をなめ、思いを果たせなかった旧士族の方々の怨念が130-40年経った今、この大地を揺るがしたのだと。
廃藩置県がこの先の安定的な収入の道を途絶えさせ、また、士族という武士のプライドも近代的な官軍に打ち砕かれた旧藩士の人々が、それでもなお、”気骨と気概”だけで茫漠とした不安の原野と堂々と戦って討ち死にした事実は日本人としての誇りであり、未来に語り継がれていくべき勇気の武士道物語なのです。心より敬意を表し、感謝をいたすとともに、魂の清清しく安らかならんことをお祈りいたします。
奈良大神神社の大鳥居と耳成山
大神神社境内の心を暖める豪快な焚き火
三輪明神の鳥居、ここからの参道(産道)はすがすがしい厳かな気を感ずる